礼拝メッセージ

          トップページに戻る

2012年2月19日 加藤真喜男師  説教「あなたは誰を恐れる?」創世記27章1〜17

 「あなたは、神を恐れていますか?」
 そう言われたら、皆様はどう答えるでしょうか? 神を恐れるとは、神は人間を超えた存在だと知っているから怖いと感じることではありません。

神を恐れるとは、全知全能であり、永遠不変であり、いつくしみ深い、私たちにいのちを与えて下さったお方を敬い、その人格を知った上で従うということです。神様を恐れて、敬い礼拝していますと言いながら、神を第一としないで自分の思いや欲望を優先させているなら、それは本当に神を恐れているとは言わないのです。

 

人間はアダムの堕落以降、神を恐れ従いたいという思いを失ってしまいました。それよりも自分が神のように、自分中心に生きるようになりました。これが罪です。

しかし希望があります。私たちがキリストを信じて新しくされた時から、もう一度人が罪を犯す以前の、人間本来の姿に戻るように導かれていきます。神を神として認め、神との生きた交わりをしながら、生き生きとしたいのちに生きるようにです。

今日はイサクの家庭でさえ、罪の根の深さゆえに主を恐れられなかった事をていなかった事に目を向けて行きましょう

 

27:1 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます」と答えた。

27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。

 

イサクは歳をとったとかかれていますが、ヨセフの生まれた年やパタンアラムにヤコブがいた年、そしてイサクが死んだ年すべてを考え合わせると少なくてもあと43年は生きました。しかし、イサク自身は目も良く見えなくなり、もういつ死ぬか分からないと言うのであります。

族長として、後継ぎを決めてあとを任せることは大切な最後の仕事だったでしょう。イサクは覚悟を決めてこの最後の仕事を果たそうとしているのです。

しかし、次の文章を読んで何か違うと思わないでしょうか?

 

27:3 だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。

27:4 そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」

 

ここには美味しい料理と祝福という言葉が浮かび上がってきます。美味しい料理を食べて元気を出し、祝福すると言うのでしょうか?口語訳聖書や共同訳聖書には4節のできるために、と言う言葉が省略されています。 
 しかし、ヘブル語には確かに、「ためにと」言う言葉が使われているのです。この「ために」という単語は大変重要なのです。何故なら、イサクはエサウに祝福をする事を、躊躇していた事に気付かせる言葉だからです。

どういう事かというと、神様はイサクに、エサウではなくヤコブを祝福するようにと既に示していたからです。もし、ヤコブよりエサウを祝福するなら、神の御心に反する事になる事を知っていたでしょう。

その根拠となる箇所はエサウとヤコブが生まれる前の神様の言葉です。

 

25:23 すると【主】は彼女に仰せられた。

   「二つの国があなたの胎内にあり、

   二つの国民があなたから分かれ出る。

   一つの国民は他の国民より強く、

   兄が弟に仕える。」

 

どちらも、それぞれの国を起こしますが、弟が祝福されると言われています。更にエサウがお腹を空かせて帰って来た時に言った言葉があります。

 

25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。

 

エサウは既に一杯の食事と長子の権利、神の祝福を売り渡していたのでした。この二つを見るならば、神が祝福へと導いているのは、エサウではなくヤコブである事が分かります。しかしイサクはエサウを愛していたのでした。

2528節にはこんな記事があります。

 

2528 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

 

父の愛はエサウに向き、リベカの愛はヤコブに向いていました。そしてイサクとしては、自分が愛するこのエサウに後を継がせたいと思ったのでしょう。その結果、エサウを呼び、おいしい物を食べ、そして勢いでエサウを祝福しようとするのです。

面白いのは、エサウもイサクも両方とも食事で神に不従順を現していることです。現在では性欲、金銭欲、名誉欲が最もサタンが使う手だと言われます。私も気をつけなくてはいけないと思います。

 いずれにしろ、イサクはここで神を恐れることなく、エサウを祝福しようと試みたのです。恐らくイサクとしては、悪いと思っていたのではないでしょうか?いや、イサクは、リベカが愛しているヤコブを祝福したくないという思いが勝っていたと考えられます。

 

罪は他の感情や、思考や物質など、ありとあらゆる物を隠れ蓑にし、神を恐れる事を忘れさせ、分からなくする物だからです。しかし、薄々本人は気付くでしょう。そしてイサクはその気付きを、おいしい物を食べると言う思いで締め出たのではないでしょうか?

それを聞いていたリベカは直ぐにヤコブに、父イサクがエサウに言った言葉を告げるのです。そしてこう命じるのです。

 

27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。

27:10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

 

 リベカは、祝福をエサウから奪う様に言うのです。父はエサウを愛し、母はヤコブを愛した故でしょう。恐らくはこの家は悲しい事に二つに割れていたのでしょう。以前お話ししましたが、アブラハムの妻サラは、ようやく授かったわが子へ偏った愛は、イサクに影響を与え、イサクはリベカに母親の面影をいつも探したでしょう。

 その結果、リベカは夫婦としての愛情の不足を感じ、その代わりにヤコブを愛したと思われます。そしてイサクは、自分の愛がリベカに受け入れられないので、代わりにエサウを愛したのではないでしょうか?

 これは本来、夫婦がお互いに向ける愛情を子どもに注いでしまったゆえの悲しい結果なのです。ここでも、罪の根の深さを見ることができます。何とイスラエルの先祖の内にもすでに罪が深く根ざしていたのでした。 

 母リベカの言いつけに対してヤコブは言います。

 

27:11 しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。

27:12 もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」

 

 このヤコブの言葉を注意深く読んでみましょう。ヤコブは、目の悪いお父さんに悪いからではなく、また、お父さんの背後におられる神様が恐ろしいからではなく、見破られたら怖いからと言うのです。

 

27:13 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

 

母は強いなあと思います。この言葉を見る中で、母親の愛情の深さを感じます。のろいは私が受けるというのです。しかしこの言葉を何処まで覚悟して言ったのでしょうか?兎に角早く、ヤコブを動かし、祝福を受けることにだけ目が向いていたのではないでしょうか?

 

 27:14 それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。

 

 リベカは、腕を振るって美味しい料理をイサクに料理をこしらえたでしょう。

料理が出来上がると、リベカは家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せ、 また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせたというのです。

 それではばれるだろうと思いますが、それで良かったのでした。

 

 27:17 そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。

 

まさに、全ての準備が終わり、イサクの元に行くだけとなっているのです。リベカは、お膳立てを済まし、後はヤコブが年をとった自分の夫イサクを上手く騙せば全てが成功と思っていたでしょう。

 
 イサクが、神の御心に反してエサウを祝福しようとした事と比べるなら、リベカはヤコブを祝福されるように仕向けたことは神の御心に従ったことのようにも見えます。

エサウが祝福を受けるに相応しくないことは明らかでした、エサウが二人のヘテ人の娘を娶ったことも、主への思いも、主との契約を引き継ぐ為に相応しくないという事は明らかだったでしょう。だから、リベカはこう思ったのではないでしょうか。自分が行っている事の方がイサクより信仰的だと。

 

しかしこの時のリベカの思いは、明らかに神の目に喜ばれないものだったと分かります。

 

聖書は常に秩序を重んじ、また人が正しい思いで、神の前に歩むように導いています。そして間違いを犯した時には、真摯に神の前に立ち返り、悔い改めるように言っているのです。

決して結果や目的がよければ、嘘をついてもとか、人を傷つけても良いとは言っていません。また、その様な人々は目的や目標に色々な、それ以外の物を混ぜ易い事も覚えておかなくてはいけません。

リベカもこの時、自分では神様のみ心を前面に置いているつもりだったでしょう。

しかし、恐らくはそれは名目だけであり、本当にあったのは、自分が愛するヤコブへの愛情だったのではないでしょうか?それに対して、ある人はこう言うでしょう。もしリベカの行動が無ければ、神の御心であるヤコブへの祝福が無くなって居たでしょう。

それと同じように、この伝道がなければ、あの人は教会に来なかったでしょうと言う人がいるでしょう。しかし、それは本当でしょうか?私は神が救うと決めたのなら、神がイサクを通して祝福をすると決めたのなら、リベカや私たちが何かをしなくても他の何かを、もちいて主の御心がなされたでしょう。

 誤解しないで頂きたいのですが、何もしないで、良いという事を言っているのではありません。私達は、主から新しいビジョンや考えが与えられた時、主を恐れつつ歩むべきです。その時、主の業に携わらせて頂ける、幸いを得るのです。もっと言うならば、私たちの人生の中で、最も素敵な業を見る事が赦されるのです。

 だから、目標や目的が表面上正しくても、もう一度動機が何であるか、主が私達をその様に導こうとしているかを確認する必要があるということです。そしてそれが主に喜んで頂けるかであります。私達はこの27章、以降リベカを見なくなります。

 

ある人の言い方を引用するならば、聖書はこの後リベカを無視したと言えるでしょう。サラや、ラケルやレアに関しては、死までしっかり描かれています。しかし、リベカの存在はここで終わりなのです。それは、神の前に族長を騙したものとして、確かに呪いを受けたのかもしれません。

軽々しく言葉を発する事に気をつけなくてはいけないと思わされます。神は全てを聞かれておられるからです。今日の箇所でイサクの家系は全員神を恐れることに失敗しました。

 

これが、アブラハム、イサク、ヤコブの神と言われる、信仰の父祖達の姿なのです。私たちと同じような自分かわいさによって罪を犯すような、同じ人間なのです。

この姿を見た時、私達は安心するかもしれません。なぜなら、もし、神が完全に正しい人しか、救いに入れないのならば、私達は誰も、救われないでしょう。私達は、神の前に正しく歩もうと思っていますが、ある時には弱さの中で嘘をついてしまう事さえあるでしょう。

 

そして、心の中を見るのなら、至る所に罪の根が見当たるでしょう。遅々として聖化の歩みが進んでいないで苛立ちさえ持つこともあります。そして、時主の前に申し訳なく思ってしまう時があるのです。しかしこの族長達の姿を見た時、もちろん、主によって明確に研がれて行きますが、この世においては何処までも不完全だと気付くのです。

もちろんその不従順の付けは多くのところで支払っていますが。神は、すぐれたきよい人ではなく、欠けも弱さもあるそういう人間を選び、救いに入れてくださるのです。だから救いは恵みなのです。罪のまし加わるところに恵みもまたまし加わるのであります。もちろん、だからといってこの神の恵みにあぐらをかくような神を恐れない歩みをして良いというのではありません。

信仰生活の根本はやはり神を恐れることだからです。

 

伝道者12:13 

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

 

お祈りを致します。